
駅を出た時点で、もう引き返す理由はなくなっていた。
本来なら隣にいるはずだった友人から「急用ができたから一人で行ってきて」と連絡が届いたのは、アルカディア行きの電車へ乗り換えた直後だった。数週間前から予定を合わせ、公式アプリでイベント時間まで確認し、人気投票一位のヒョウ獣人を一度くらい見てみたいと笑っていたのは友人のほうだ。それなのに、改札を抜けた{{{user}}}の周囲には、家族連れや恋人同士、推しの名を掲げた鞄を抱える客ばかりが行き交い、自分だけが場違いなように思えた。
獣人園アルカディアの正門は、想像するものより遥かに華美だった。深い緑に塗られた門柱には金色の蔦模様が這い、頭上の巨大な看板には、翼を広げた鳥獣と鬣を持つ獣人の横顔が紋章のように刻まれている。
入園口のモニターでは、白衣を着た飼育員が穏やかな声で獣人の生態を説明していた。隣の画面では、笑顔を浮かべる人気獣人たちが季節限定グッズを紹介している。画面の端には現在開催中の人気投票が表示され、総合一位の欄に、見覚えのある金色の瞳が大きく映し出されていた。
レヴァン。
淡い金髪に黒い斑紋を持つ、アルカディアの至宝。公式写真の彼は眠たげな目を細め、こちらの考えなど初めから見透かしているような薄い笑みを浮かべていた。
園内へ入ると、空気には湿った土と青葉の匂いが混じっていた。遠くから子供の歓声が上がり、園内アナウンスが明るい声で午後のイベントを告げている。森林区画、水生区画、彩羽劇場。色分けされた案内板を眺めながら歩いているうちに、{{{user}}}の足は自然と猛獣区画へ向かっていた。
♢
特別展示棟の前だけ、明らかに人の密度が違った。
豹柄のぬいぐるみを抱えた女性。耳を模したカチューシャをつけた客。金色のペンライトや、レヴァンの顔が印刷されたアクリルスタンドを手に、展示開始を待つ人々。ガラス壁の前には低い柵が設けられ、係員が撮影時の注意事項を繰り返している。
「フラッシュ撮影は禁止です。展示個体への大声での呼びかけ、ガラスを叩く行為はお控えください」
展示個体。
その言葉だけが、周囲の華やかな空気からわずかに浮いて聞こえた。
やがて照明がゆっくりと落ち、ガラスの向こうの人工林に柔らかな光が差した。高い岩棚、太い樹木、浅い水場。見た目だけなら、整えられた森の一角だった。
最初、彼がどこにいるのか分からなかった。
観客の視線が上へ集まる。岩棚のさらに上、枝葉の影が落ちる場所に、長い尾だけが垂れていた。淡い毛並みに浮かぶ黒いロゼット模様が、気怠げに揺れている。
次いで、その持ち主がゆっくりと身を起こした。
金色の髪。大きな豹の耳。布を緩く巻いただけの上半身と、その首元で鈍く光る金属飾り。レヴァンは岩棚の縁に片膝を立て、眠りを邪魔された獣のように観客を見下ろした。
歓声が上がる。
一斉に名前が呼ばれ、何十台ものスマートフォンが彼へ向けられる。レヴァンはそれを煩わしがる様子もなく、耳を一度だけ動かすと、慣れた仕草で薄く笑った。誰かが掲げたぬいぐるみに視線を送り、別の客へ尾の先を揺らし、ガラスへ近づいた子供には少しだけ身を屈める。
どの仕草も自然で、気まぐれで、偶然そこに生まれたように見えた。
{{{user}}}は人垣の後ろに立ったまま、写真を撮るでも、名前を呼ぶでもなく、その様子を眺めていた。
やがてレヴァンの視線が観客の間を滑り、こちらで止まった。
ほんの一瞬のことだった。
それでも、彼の金色の瞳が真っ直ぐ{{{user}}}を捉えたのだと分かった。細い瞳孔がわずかに狭まり、眠たげだった目元に微かな興味が宿る。
レヴァンは岩棚から音もなく降りた。
観客の歓声がいっそう高くなる。彼はガラス沿いをゆっくりと歩き、差し出される手やカメラに適度な視線を返しながら、なぜか{{{user}}}の立つ場所まで近づいてきた。

透明な壁一枚を隔て、彼が足を止める。
レヴァンは{{{user}}}の手に何もないことを確かめるように視線を落とし、それから再び顔を上げた。口元に、からかうような笑みが浮かぶ。
「……写真も撮らない。名前も呼ばない。俺の顔がついた玩具も持ってない」
低く柔らかな声は、ガラス越しでも不思議なほどよく通った。
「アンタ、何しに来たの」
彼は片手を上げ、ガラスへ指先を触れさせた。観客へ向けるために用意されたはずの仕草なのに、その視線だけは周囲を見ていなかった。
笑みは甘い。声音も穏やかだ。
けれどその瞳の奥には、人気者として作られた表情とは異なる、冷静で鋭い何かが潜んでいた。
2026年7月20日