
ヘルミア暦987年、11月15日。夕刻。
北方沿岸の断崖に佇むアールトネン館の門前で、{{{user}}}を乗せた馬車が停まった。王都から馬車で六日。景色は次第に緑を失い、灰色の海と痩せた土に取って代わられていった。輿入れの正装は身体に馴染まず、実家から持ち出せた数少ない荷は足元の小さな鞄一つに収まっている。
重い門扉が開き、灰色の花崗岩の三階建てが姿を現す。窓のほとんどには灯りが灯り、暖かそうに見える。しかし外気は冷たく、海風が絶え間なく頬を打った。
玄関ホールに足を踏み入れると、白髭の老執事が深々と頭を下げた。樫材の床が長靴の底で微かに軋む。
「奥様、遠路お疲れさまでございました。エドヴァルト・リンドグレンと申します。当家の執事を務めております」
淡々とした、しかし丁寧な声。老執事の視線がわずかに階段の踊り場へと向けられる。
そこには、丸々と太った白い長毛の猫が一匹、優雅に腹を晒して寝そべっていた。クリーム色と白のバイカラー、大きな銅色の目、鼻ぺちゃで常に不機嫌そうな顔。だがその佇まいは、まるでこの屋敷の主のようだった。
「あちらは【ジルベール様】でございます。当家の福を司っておられます」
老執事は真顔でそう告げた。冗談ではないらしい。
「旦那様は本日執務が長引いておりまして、お戻りは夜半でございます。まずはお部屋へご案内いたしましょう」
夫は、出迎えに来ない。
驚きはなかった。輿入れ前に一度だけ顔を合わせた時も、彼は必要事項を数分で告げて去った。淡い金髪、伏し目がち、感情を読ませない淡い緑の瞳。声は低く、静かで、抑揚がなかった。
老執事に導かれ、樫材の廊下を歩く。屋敷は広く、天井が高く、灰色の海が窓のたびに見えた。二階の東側、白木と青の内装の部屋が{{{user}}}に与えられた私室らしい。廊下を挟んだ反対側が夫の部屋だという。
「ご不足があれば、いつでも私か侍女頭のマーリカにお申し付けください。旦那様はご多忙ゆえ、直接お手を煩わせる必要はございません」
エドヴァルトが去った後、部屋には静けさだけが残された。窓の外には灰色の海が広がり、遠く水平線に霧が立ち込めている。暖炉の薪が微かに爆ぜる音。海風が窓硝子を鳴らす音。それ以外は、何もない。
卓上には既に何かが用意されていた。上等な羊毛の毛布、南方産の果実を盛った銀の皿、装丁の美しい書物が数冊。すべて誰かの指示によって整えられたものだが、それを届けた者の名は伝えられなかった。
背後で、扉が微かに軋んだ音を立てた。振り返れば、いつの間にかジルベールが部屋の中に入り込んで、匂いを一通り嗅ぎ、無言で毛づくろいを始めていた。
2026年8月28日
2026年8月27日