
8月1日、月曜日、午前10時過ぎ。リンネ市の外れ、大通りから一本外れた路地。木彫りの重厚な看板がかかった小さな店の前を、ただ通り過ぎようとしていただけだった。看板には「森のパン工房 くまや」。看板の下、手書きの札に「本日開店」。
次の瞬間、視界の端で扉が勢いよく開いた。
「捕獲!!」
視界の下から漆黒の影が飛び出す。信じられない速度。細身の獣人の手が伸びて、袖を掴んだ。
「連行!連行っす!モルトさーん、確保しました!!」
黒ウサギの獣人が、深紅の瞳をきらきらさせながら、袖を引く。抵抗する間もなく、店の中へ引き込まれる。
店内は薄暗かった。頭上の白熱灯が、じ、と鈍く光る。周囲を三つの影が囲んでいた。正面に巨躯のヒグマ獣人。左に銀灰色の毛並みのオオヤマネコ獣人が、氷のような青い目でこちらを見ている。右に赤毛のリス獣人が、古びたレシピノートを胸に抱えたまま金色の目でじっと見上げていた。後ろは袖を掴んだままの黒ウサギ。四方向、全方位、獣人。逃げ道はない。
ヒグマ獣人が、深く息を吸った。もう駄目だ、と思った。その大きな体が――ぐん、と勢いよく、腰を折った。
「たすけてくださいっっっ!!!!」
絶叫だった。同時に、四方向すべてが、一斉に腰を折った。
「たすけてください~~~~!!」「頼みます!!!マジで!!!」「もう、時間がないんです……」
さっきまでの威圧が嘘のように、店内の空気が震えている。ヒグマ獣人が、腰を折ったまま、震える声で言った。
「俺、モルトと申します。この店の店主です。……あなたを見た瞬間、これは"来た"と思いまして。救世主が」
モルトが、腰を折ったまま、周りの三人に手を向けた。
「こちらが、うちの配達担当のセモラ」
「セモラです!!よろしくお願いしますっ!」
袖を掴んでいた黒ウサギが、飛び跳ねるように腰を折った。
「そちらが、レジ担当のダグ」
「ダグ。よろしく」
オオヤマネコが低い声で短く言った。頭を下げても氷青の目だけはこちらを離さない。
「あちらが、菓子担当のヒノ」
「ヒノです。よろしくお願いいたします」
リスが、レシピノートを胸に押し当てて、静かに深く頭を下げた。
四人が期待の目でこちらを見ている。モルトの巨大な手が、ゆっくりと差し出された。手のひらの上に、異様に分厚い書類。表紙には手書きで「名誉ぷろぢゅーさー雇用契約書(森の掟適用)」。報酬欄、賄いパン(現物支給)。期間欄、8月31日まで。その日付の下、赤字で小さく「借金返済期限」。
この店ではプロデューサーではなく"ぷろぢゅーさー"が正式表記らしい。モルトが書類を差し出したまま、深く頭を下げた。
「話だけでも、聞いていただけませんか」
ためらった、その一瞬。ふわ、と手を取られた。柔らかい毛並みの感触。セモラの黒い手が、こちらの手を優しく包んで、指先を持ち上げていた。深紅の瞳が至近距離で、にこ、と笑う。
「大丈夫です、痛くないです。ちょっとだけ、失礼します」
親指の腹に、ぽん、と冷たい何かが押し当てられた。朱肉。手はまだ離してもらえない。セモラは笑顔のまま、指先を書類の署名欄まで運んで、丁寧に、しかし迷いなく、押し当てた。ぺた、と朱色が紙に残る。
「はい、契約完了です!ようこそ、名誉ぷろぢゅーさーさん!」
セモラがぱっと手を離した。あまりに手際が良い。何度もやってきた動作だった。モルトが、腰を折ったままの体勢で、ものすごく安堵した顔をしていた。ダグは表情を変えないまま小さく頷き、ヒノは静かにレシピノートを撫でて口元を緩めた。四人の獣人の空気が、一斉に、ふ、と柔らかくなる。
セモラが跳ねるように一歩下がって、両手をぱんと合わせた。
「そうと決まれば!まず店内のご案内しますか!?借金の話きっちりしますか!?僕らのこと、もっと詳しく知りますか!?」
四つの視線が、期待に満ちて、こちらを待っている。
2026年8月10日
2026年8月23日