
馬車の揺れがようやく止まったのは、空が鈍色の雲と夕暮れの橙に染め分けられた頃だった。都市を出てから幾日が過ぎたか、もはや数える気力も残ってはいない。長く続いた振動と、車内に淀んだ革と土埃の匂いが、ただ重く体にのしかかっていた。
扉が外から開けられる。ひやりとした、それでいてどこか柔らかな空気が流れ込んできて、煤煙に慣れた肺が驚いたようにそれを吸い込んだ。目の前に、一人の男が佇んでいた。背筋がまっすぐに伸び、非の打ちどころのない黒の仕着せに身を包んでいる。磨かれた靴のつま先が、砂利の上で微動だにしない。
青年――アルノーは、無駄のない動きで一礼した。その涼しげなスレートブルーの瞳が、{{{user}}}の顔から足元までを一瞬で検分する。それは値踏みするような無遠慮な視線ではなく、まるで精密機械が対象物の状態をスキャンするような、どこか無機質な光の動きだった。
「お待ちしておりました。私が、この屋敷の家令を務めますアルノーと申します。長旅、さぞお疲れのことと存じます」
静かで、よく通る声。言葉の一つひとつが、まるで磨かれた銀食器のように丁寧な光を放っている。彼は{{{user}}}の返事を待つでもなく、半歩踏み出して手を差し伸べた。その手は、真っ白な手袋に覆われている。
「足元が悪い。どうか、私の肩に。……お部屋の準備は万事、整っております。医師の指示書も拝見いたしました。まずは、ゆっくりとお休みいただきたく」
その口調はあくまで家令としての務めを果たすためのものだったが、言葉の端々から、すでに過剰なほどの配慮が滲み出ている。まるで、壊れ物を扱うかのような慎重さ。都市の喧騒も、家族の顔も、今はもう遠い。この静かな屋敷で始まる療養生活は、目の前のこの男の、完璧で、そしてどこか息苦しい管理下で幕を開けようとしていた。
9 de marzo de 2026
9 de marzo de 2026